両足院とご縁の人々

両足院とご縁の人々
両足院とご縁の人々
  • 林浄因

    「林浄因」

     元(中国)の出身。浄因は孤高の詩人・林和靖(りんなせい)の末裔である。龍山和尚に帰依し、その日本帰国の際に、来日した。浄因の子孫は帰化し、禅僧や商人を輩 出した。その曾孫・文林寿郁(ぶんりんじゅいく)は知足院を護持し、両足院を創建した。林家からは累代、両足院住持を輩出し、龍山徳見の遺志を守り続ける。さらに浄因は、日本に 「饅頭」を伝え、その末裔が老舗「塩瀬」をおこすなど、食文化に重要な功績を残している。


     また、浄因の末裔の林宗二は、「饅頭屋本節用集」という国語辞典を記し、学問に大きな貢献をしている。 そして、昭和61(1986)年、塩瀬総本家34代当主によって「日本饅頭創始人鹽 瀬始祖林淨因記念碑」と刻まれた碑が中国に建立され、平成5年(1993)には、中国側からの打診により林和靖の眠る西湖・弧山に記念碑が移転されている。

  • 末続平蔵 初代政直

    「末続平蔵 初代政直」

    筑前国博多(福岡県福岡市博多)の出身
    1546~1630
     江戸時代初期の貿易商人・長崎代官。名は政直。妻は、飛騨高山城主・金森可重の娘。因みに妻の生母は美濃郡上藩主・遠藤慶隆の息女。遠藤家はかつて建仁寺霊泉院の大旦那であった。
     政直は、博多商人・末次興善の次男として生まれる。元亀2(1571)年の長崎開港とともに興善・政直親子も長崎に移る。
     そして、朱印船貿易でベトナム・タイなど幅広く貿易を行い、アジア全域に商圏を獲得した。後、元和5 (1619) 年には村山等安に次いで長崎代官となる。


     政直は、法名を「永安院殿通玄宗徹居士」といい、妻「永安院殿月桂永昌禅定尼」の墓と 二基並んで当院の墓地東北隅にある。
     平蔵の名前は、2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。
     2代平蔵に関しては、当院9世以成東規に隠元・木菴の墨蹟及び盆席などを寄付した目録と実物が現存しており、初代夫妻の墓と並んで当院に眠る。法名「皆春院昨非不干居士」。
     その後、末次平蔵(4代)茂朝の代にカンボジア密貿易が発覚し、一族のすべてが処罰された。また、末次一族は、長崎に九州唯一の建仁寺派・春徳寺を建立する。華嶽山春徳寺。臨済宗建仁寺派。寛永7 (1630)年、建仁寺三江紹益の法嗣・泰室清安開山

  • 三輪執斎

    「三輪執斎」

    京都出身
    1669~1748
     名は希賢(まれよし)、字は善蔵、号は執斎、又躬耕廬ともいう。
     京都出身。江戸の佐藤直方の門に入り、朱子学を学ぶが、陽明学も学ぶ。直方没後は、下谷に家塾明倫堂を開き、子弟に陽明学を講義する。  著書に『大学俗解』『孝経小解』『標註傳習録』四巻等、詩文集に『執斎雑著』四巻。
     洛北加茂に住み、大阪にも滞在し子弟を教育する。
     人となりは「柔和謙遜」の人であったと伝えている。なお、門弟の川田雄琴は、執斎の推挙で、伊予大洲藩主五代・加藤泰温の侍講となる。
     三輪執斎が両親の沢村自三夫妻の墓と自らの寿塔を建てたのは、当院12世東陵曇延の入寺した元文4 (1739)年の11月であった。

  • 白木屋祖 大村彦太郎 初代可全

    「白木屋祖 大村彦太郎 初代可全」

    近江国(滋賀県)出身。
    1638~1689
     初代可全は、早くに父と死に別れ、近くの良躊寺(滋賀県長浜市下坂浜町)の法山和尚について学ぶ。彦太郎に商才があることを見抜いた和尚の勧めで、京で材木商をはじめ、やがて江 戸に出た。和尚の励ましで、辛抱強く働き、小間物の行商からやがて日本橋にささやかな店をもつまでになった。寛文2(1662)年に日本橋に新しく店を構え、積極的に呉服太物を扱った。
    (白木屋の創業年)
     可全の言葉「商いは高利をとらず、正直に良きものを売れ、末は繁盛」は、白木屋の創業以来の店則となる。


     当院10世雲外東竺のもとに檀家になろうとして門をたたいたのは、貞享2年(1685)である。
     元禄2 (1689) 年1月20日、初代が54歳で没し、法号は「如翁道慈居士」とし、当院に墓を設けた。以後代々の一族は、先宝の側に葬られ、現在当院の墓地の約4分の1は同家関係の墓で占められている。  また、大村家は、ただの商人で終わらず、初代可全の関係から禅宗にも帰依し、従弟の禅僧・至道無難和尚を開山として江戸東北寺を援助するだけでなく、2代安全は、江戸市民のた めに、井戸の開削を行い、「白木屋の井戸」として、庶民の喉を潤した。6代目は京都における高山彦九郎を支援した。さらに明治期の大村彦太郎は、定家の山荘跡・厭離庵の荒廃さをなげき、茶室・時雨亭を復興した。
     そして、当院には境内東北隅に、有楽斎好みの腰張席「水月亭」を寄付し、さらに昭和元年、高台寺にあった同家の茶席「臨池亭」を寄進。これを、水月亭の東辺に移建した。
     しかし、その「老舗 白木屋」も昭和42年に入り諸事情により「東急日本橋店」という名称に変えることになった、その東急日本橋店も1999年1月31日をもって閉店し、330年に及ぶ「白 木屋の歴史」が消えた。

  • 塩瀬家

    「塩瀬家」

    日本の饅頭の起源には1つに塩瀬家がある。1349年に龍山和尚と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。
     両足院の墓地に昭和6(1931)年に建立された饅頭屋町合塔の碑文には、林浄因が饅頭屋町の始祖であり、その子孫が奈良と京都に住み、のちに愛知県三河の塩瀬村に住んだので塩 瀬と改称したなど、同家の歴史が記されている。
     なお、昭和61(1986)年に中国に林浄因碑が立てられて以来、毎年10月初旬に碑の前で紅白饅頭2000個を配るという「饅頭祭」を続けている。

  • 藪内茶道

    「藪内茶道」

     藪内流(やぶのうちりゅう)は茶道流派の一つである。千利休時代の茶道の本質を留めているという。これは武野紹鴎・千利休の侘び茶に古田織部の武家茶の影響を入れたものである。藪内の遠祖は、室町将軍・足利義政の同胞衆であり、初代は武野紹鴎の門下。兄弟子の千利休とは親交が深く、利休より相伝を受ける。
     藪内家中興である五代藪内竹心は、当院10世雲外東竺の元に参禅しており、当院の書院前の作庭に携わったといわれる。また雲外和尚100歳の高寿に達した時、竹心はお祝いとして七言絶句と和歌に添えて銘「玉椿」の花入れを贈った。


     また竹心は、利休時代の茶道の本筋に立ち返るべきと論じている。藪内流の精神「正直清浄 礼和質朴」は竹心の言葉である。法号「竹心紹智居士」

臨済宗大本山建仁寺塔頭 両足院
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