両足院の開山・龍山徳見禅師

開山・龍山徳見禅師

 龍山和尚は、関東の名族・千葉氏の出身です。今の下総国香取郡(千葉県香取市周辺)が生誕地です。  徳見は、最初「利見」という名で十二歳のころ、鎌倉五山の寿福寺に入り禅僧の道を歩み始めます。最初の師は、寂庵上昭(じゃくあんじょうしょう)【黄龍派】で明庵栄 西(みんなんようさい)【建仁寺開山】の法孫です。


 当時、円覚寺には中国からの稀代の高僧・一山一寧(いっさんいちねい)和尚がいました。彼に参ずるものが後を絶たずの状況でした。
 そこで一山和尚は、漢詩文の試験を行いました。そこでトップで試験をパスしたのが利見です。円覚寺で禅と漢詩文を勉強する間、一山和尚は利見の才能を見抜き、中国への渡航を薦めます。
 そして、利見は中国へ単身渡ることを決意します。

  • 千葉神社

    千葉神社

  • 龍山徳見禅師筆「首座上堂」

    龍山徳見禅師筆「首座上堂」

 密航した利見は中国、寧波に上陸します。この時、利見は心情を次のように述べています。
 「古人為法亡躯。今正是時」(かつて、いにしえの人は仏教を学ぶために身を滅ぼした。まさに今、いにしえの人を見習うべき時が来た)と強い意志を述べています。

 しかし、寧波では日本人商人と官憲の対立がおきたため、官憲により、徳見も拘束の上、洛陽の古寺・白馬寺に監禁されます。このように徳見の中国における生活も平 坦なものではなかったようです。
 赦免を受け、天童寺の東岩和尚のもとに戻りますが、和尚は既に死去しており、しばらくして、雲岩寺の古林清茂(こりんせいも)のもとで漢詩文を学びます。


その後、各地を遍歴の後、廬山東林寺では「経蔵役」に任ぜられます。
 そして苦節の末、元王朝から、正式に認められ、黄龍慧南(おうりょうえなん)の弟子・兜卒従悦(とそつじゅうえつ)の霊場である兜卒寺(とそつじ)の住持に任命されます。官寺の住持の日本人の任命は異例のことで、これが初めてとなります。

  • 当院開山忌(毎年10月13日)

    当院開山忌(毎年10月13日)

 徳見は、中国に途絶えそうになっていた臨済宗黄龍派を再興し、中興の祖となった人物です。通算して四十年の長きに亘り、中国で過ごすことになります。
 建武の新政崩壊後、室町幕府を創設した足利尊氏・直義兄弟の招きにより、徳見もようやく帰国の途につきます。この帰国の際に、徳見を慕って日本に渡海したのが林浄因(りんじょういん)です。
 徳見は、足利氏の奏請により、京都に戻り、建仁寺・南禅寺・天竜寺の住持になりました。この間、夢窓疎石の弟子、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)など後進を指導し、朝廷からはその法誉にたいして「真源大照禅師」の号を賜わりました。
 徳見は、故郷千葉への思いがありました。京都から離れられなくなった徳見の意思を継いだ法嗣の一人・大航慈船(だいこうじせん)は、師が渡航で世話になった千葉一族への御礼と弔いのためでしょうか、下総国の花島観音に籠ります。後に、千葉一族の後見役・国分胤詮のために下総国香取郡に黄龍派寺院「大龍寺」(現在香取市与倉)を建立します。

  • 大龍寺

    大龍寺

  • 龍山徳見禅師筆「南禅寺上堂」

    龍山徳見禅師筆「南禅寺上堂」

 延文三(一三五八)年、十一月に徳見は軽い病気に罹りました。そこで自ら東山建仁寺に行き、墓穴を自ら掘って、棺桶かわりに甕を埋めたと伝わっています。
 そこで、その数日後に死期を悟った徳見は「西涌東没 南往北来 末期一句 掘地深埋」と書いて遺偈としました。
 「西に涌いたかと思うと東に没する。南へ行ったかと思うと北へやって来る。最後のわかれの一言 地面を掘って深く埋めなさい」
 そして遺偈に「十一月十三日」と署名して泰然自若として世を去りました。その遺言どおり建仁寺に全身のまま葬られました。

開山 龍山徳見
りゅうざんとっけん
[真源大照禅師]
龍山徳見[真源大照禅師]
木造真源大照禅師坐像
享保8年(1723)
弘安7年(1284) 下総の香取に、千葉氏の一族として生誕
永仁3年(1295) 寿福寺にて寂庵上紹を拝して得度
嘉元3年(1305) 入元を志し、寧波に上陸
元徳2年(1330) 兜卒寺の住職に任命される
貞和5年(1349) 在元45年の後帰国
観応元年(1350) 建仁寺35世に就任する
文和3年(1354) 南禅寺24世に就任する
延文2年(1357) 天龍寺6世に就任する
同3年(1358) 示寂年75歳 11月13日
 
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